上に立つものこそ、周りを見渡せるか否か。

2024年09月17日

 私が当時、児童指導員として働いた頃の出来事を話したいと思う。私の性格なのかもしれないが、職場や友達との関係であっても、自然といつの間にか、何か重要な案件を任される事や解決すべき事を頼まれると言った役回りと言うのか、責任感も強いという性格も重なり、必然の流れで、職場でも自然と人をまとめていく役職へと進み、当時、最年少29歳にして施設長として働いていたのです。周りは50・60代の人生の大先輩ばかりの環境で過ごしてきた私は、色んな意味で学びを得れた。

幼い頃からの環境も影響してか、人を観察する事に少し秀でている私は、瞬時で人を見抜いてしまう特技がある。

校長・部長クラスの人間たちの観察をする中で、私は上に立つ者こそ、周りにどれだけリスペクト!配慮できるか?その技量がどれだけ、その人間にはあるのか?そんな風に人を観察していたのです。(今思えば、生意氣な人間だったかもしれない。)

 人の上に立つことは成し遂げ、達成できたとしても、周りの部下をどれだけまとめあげることができるか?相手の氣もちに立って、どれだけ考えられるか?それはまた別の話である。

社員の不得意・得意分野を上に立つものこそ能力を見極め、仕事が如何に円滑に進めるか?一歩先ではなく、何歩も先まで、察し前だけを見るのではなく、左右・前後ろまで目を使えるか否かであり、木を見て、森を見ずと言うけれど、その森の枝・枝の先まで見えるか否かではないか。

上に立つもの次第で会社の雰囲気も変わり、市町村や国の舵も上次第で一氣に流れも変わる。

 だからこそ、上に立つべき人間こそ、我欲ばかり通す人間であれば、その会社やそのまちは、必然と氣が滞り、一見順調なように見えても、いずれ数々の問題が山積みになり、必然と衰退していく。